ジェーン・オースティンの「エマ」

高柴です





ジェーン・オースティン「エマ」をやっと読み終わりました。久々に気力と体力のいる作品でした。
オースティンは「高慢と偏見」で有名ですね。あの作品は大好きです。詳しくは2月14日の日記
先日古本屋さんで阿部知二氏訳のエマが105円で売られているのを発見。その古本屋さんは、日本人作家の本は高いのに、なぜか外国人作家の本は値段のつけかたがめちゃくちゃ。おかげで、たまに掘り出し物に巡り合えたりします。

エマ (上) (ちくま文庫)

エマ (上) (ちくま文庫)

で、読んだのですが…
とにかく疲れました。おそらく、阿部氏は忠実に訳してくださっているのでしょうが、
僕は誓うと言わざるをえないとは考えておりません。(イメージ)
みたいなかんじの文章の連発で、結局どっちやねん!とイライラ。
え?え?なんか意味おかしくない?
と読み返したら否定だと思っていた文章がもう1回否定が入っていて結局肯定だった。
ということが何度もありました。まぁ私がそそっかしいのがいけないのですが。
言葉遣いが古かったり大仰だったりするのは、気になりません。海外の古典モノはだいたいそうだし。回りくどすぎる否定と肯定がちょっとね…。
肝心のストーリーですが、うーん。絶賛される理由も理解はできます。大きな事件は一切起きず、ただ田舎の上流階級の人々の日常を丁寧に描き、小さな出来事ひとつひとつにきちんと意味を持たせています。すべてはラストのために緻密に計算されているので、流れは美しく、力強い説得力があります。さすが、オースティンの成熟期の代表作。
あらすじを簡単に書いておくと、
田舎の上流階級の令嬢エマは美しく快活でさまざまな能力に恵まれた理想的な女性。自分の家庭教師であり、最も大切な友人でもあるテーラー嬢が密かに自分がお似合いだと思っていた男性と結婚したことで、自分には縁結びの才能があると思い込む。
イヤ、君は何もしていないよね?たまたまだよね?
と、近所の立派な紳士ナイトリー氏は冷静につっこむが、彼女は聞いちゃいない。
いつも一緒にいたテーラー嬢が結婚して寂しかったが、エマに新しい友人ができる。友人ハリエットは、素直で純粋で美しいが、さほど聡明ではなくあまり物事を深く考えられない少女である。ハリエットは年齢も階級もエマより下で、エマはハリエットを上流社会でやっていけるようにと教育する。そんな2人の“友情”をどちらのためにもならぬと心配するナイトリー氏。確かに2人は“友人”というより主従に近い。
そんなある日、ハリエットは同級生の兄で非の打ちどころがない青年から求婚される。しかしエマは彼の身分が低いことが許せず、ハリエットを説得して断らせる。
それからエマはハリエットのために次々といろんな縁組を画策してはことごとく失敗し、ハリエットを大きな悲しみに突き落とす。彼女の愚かな思い込みや暴走は、周りを巻き込むが、最後は回り回って自分にも痛いしっぺ返しがくる。エマは自分の行いを心から悔い、自分がある人を愛していることに気付く。


雰囲気はこんなかんじです。
面白くなかったかと聞かれると、イヤ面白かったですよと答えます。
しかし登場人物が…。信じられないくらい鬱陶しかったです。
主人公エマは傲慢で自己評価が天より高い小娘。勘違いで突っ走り、たまに反省するけど結局また勘違いで突っ走る。読者にはエマが見当違いなことばかり思い込んでいることがよくわかるので、もうアンタは黙ってじっとしてなよと何度も思います。
一番鬱陶しかったのは主人公の父親のウッドハウス氏。もうずっと健康の心配ばっかりしてるんです。昔のイギリス人はどんだけ身体が弱かったの。自分と周りの人間たちの健康の取り越し苦労をしてずっと嘆いているので、彼が出てくるたびに眠くなりました。
彼らの友人知人もしんどい人ばかり。くだらないことを延々しゃべり続ける恐ろしい癖を持つベイツ老嬢やエマに完全服従している“エマの友人”のハリエット。エマの勘違いの犠牲になるけど性格の悪さを露呈して読者から同情されないエルトン氏とひたすら嫌な女のその妻。
でも一番嫌いなのはフランク・チャーチル氏。テーラー嬢の夫の亡くなった先妻の息子。苦労知らずのワガママ馬鹿息子。周りと愛する女性を騙し苦しめておきながら、なぜ最後に長ったらしいだけでまったく説得力のない手紙ひとつで皆に許されるのか意味不明。誰か一発殴ってくれ。誰もやらないなら私が殴るよ。エマにもイライラしたけれど、フランクですべて吹っ飛びました。
しかし、興味深いのが「高慢と偏見」との対比です。「高慢と偏見」は、オースティンが若いときに書いたもので、「エマ」はもっと年齢を重ねてからの作品。「高慢と偏見」の愚かな登場人物たちは、極端なせいか、滑稽には思えても不快ではありませんでした。しかし「エマ」の登場人物たちの愚かさはリアル。実際、エマの傲慢さ、ベイツ老嬢のくだらないおしゃべり、ハリエットの思慮の浅さなどはまるで自分を見ているようであり、自分が糾弾されている気分で何度も気持ちが沈みました。
きっと、オースティン女史は年齢を重ねることで、こうした人間の愚かさをいやというほど観察したのでしょう。そして、想像ですがそんな愚かな人間たちを可愛く思うようになっていたのではないでしょうか。
今の私は圧倒的に「高慢と偏見」のエリザベスのほうが好ましく思いますが、十年後、もう一度読んだらエマのことも可愛く思うかもしれませんね。






……どうかなー。











高柴