剃刀の刃

高柴です


サマセット・モームの「剃刀の刃」の感想です。

剃刀の刃 (1965年) (新潮文庫)

剃刀の刃 (1965年) (新潮文庫)

テーマは“信仰とは”“人生の目的とは”というあたりになるのでしょうか。


あらすじは
モームはたまたま立ち寄ったアメリカで旧友エリオットから姪のイザベルと彼女の婚約者ラリーを紹介される。
ラリーは戦争中戦闘機に乗っていたが、戦争が終わったあとは職にもつかずにのらくら日々を過ごしていた。イザベルに今後の二人のことを尋ねられたラリーはやりたいことがあると言ってパリへ旅立つ。
イザベルは伯父エリオットの招きでパリへやってきてラリーと話し合うが二人の人生観があまりにかけはなれていることがわかり、別れを告げる。そしてイザベルは快適な生活を求め、アメリカで大金持ちの青年グレイと結婚する。
一方のラリーは神の存在や善悪の存在、人生の目的の意味を求め、おびただしい量の本を読んで知識を身につけながら、炭坑や農家で働いて思索にふける日々を送っていた。さまざまな体験を重ねながら世界を旅していたラリーはやがてインドで自分の人生の目的を悟る。


ほんっとうにざっくり書くとこんな雰囲気。
他にモームの友人エリオットの死までの二人の交流やイザベルの山あり谷ありの結婚後の話やラリーとイザベルの幼なじみの女性ソフィの破滅的な人生とか盛り沢山なんですが、本筋はラリーの「悟り」までの軌跡なのだと思います。


ラリーは戦友が自分を庇ってあっけなく死ぬのを目のあたりにして以来、神や悪の存在について知りたいという欲求に突き動かされてそれを目的とするわけなんですが、私はラリーにとって戦友の死はきっかけではあったかもしれないけれど原因ではなかったと思います。彼にはもともとそういう欲求があって、友人の死によってそれがはっきりしたのだと。
まぁそこはたいして重要じゃないんですけどね。
ラリーはまずキリスト教の神に疑問を持つわけです。神の存在だけでなく、本当に創造主たる神が存在するならなぜ悪というものをつくったのか、なぜ完璧なはずの神は人に自分を崇めることを求めるのか、などなど。
普通、信仰というのはそんな「矛盾への疑問」を持たずに信じるものですが、ラリーはどうしてもそこにひっかかってしまったのです。
ラリーのために言っておきたいのは、彼は決して神や信仰を頭から否定しているわけではないということ。
彼の疑問はもっと知的で根本的なものなのです。
ラリーは結局、インドで彼自身が納得できる結論を得るわけなんですが、何度読み返してもぼんやりとしか理解できません(笑)口惜しい。
ラリーは「ただ日々を生きる」ことを選びます。当たり前じゃんというツッコミが聞こえてきそうですが、ラリーはすべてから自由になって生きることを望みます。「自由」という言葉を人は簡単に肯定しますが、「自由」とは絶対的な善なのでしょうか?自由とは苦しみであり、孤独であり、幸福であることをラリーは知ったのではないかとなんとなくそう感じました。


エリオット、イザベル、グレイ、ソフィ、そしてラリー。そのほかのラリーやモームが出会った人々。彼らはさまざまなタイプの「人」の象徴なのかもしれません。それぞれ自分の人生において望むものが違います。そして全員がそれを得る。だからモームは皮肉まじりに呟くのです。この物語はハッピーエンドだと。


私はモームの「飾らないところ」が好きです。モームは難しいテーマに真正面から向き合い、そのときに彼が得た答えをそのまま堂々と書いています。ごちゃごちゃと言葉を飾ったり難しい言葉でごまかしたり、高尚な言葉で煙に巻いたりカッコつけたりしない。彼は読者に誠実です。だからモームは面白いのかもしれません。


高柴