人間の絆

高柴です


3月は節目の時期でもありますね。人生が大きく動く時期というか…。
そんな季節にオススメなのがコレ
「人間の絆」サマセット・モーム

人間の絆(上) (新潮文庫)

人間の絆(上) (新潮文庫)


基本的に主人公が何を言ってるのか分からない話は苦手です。高尚な作品…とか聞くとちょっと苦笑いしてしまいます。これも立派な偏見で、きっと面白いと感じる人がいるから生み出されて読みたいと思う人がいるから読まれているんだろうとは思うのですが、どんなに素敵な人でも苦手だと感じる人がいるように、どんなに名作だと称えられても苦手だと感じてしまうことがあるのはもう仕方のないことなのかもしれません。
で、これは一見そんな「名作」っぽいのですが、これは読めるのです。
主人公のフィリップは勝手で全然人間できてなくて弱くて読んでいてイライラすることもあるのですが、なぜかほっとけないというかズルズル最後まで彼に付き合ってしまいます。彼の弱さや悩み悲しみにどこかで共感してしまうからでしょうか。不思議な魅力を持つ主人公です。そして彼は最後、それまで彼に付き合ってきた読者を裏切らない選択をします。なんか、冷静に考えると特別称えるような選択じゃないんですけど彼への期待値が下がっていた私にとっては驚きで、
フィリップ良い奴!!
ってなりました(笑)
そんなお話。どんな話だ。


これはですね〜。テーマがありまして、それがズバリ「人生」なんです。
人生って何なんだろう…?ということをフィリップが苦しんで苦しんで最後に答えを掴むという話。
ちょっと興味あるけど「人間の絆」最後まで読む気ないよって方のためにその答えをネタバレしましょう。ネタバレが嫌な方は見ないでね。
下げます。










人生とは何か?
人生っていうのは、つくっていくものじゃない。
過ごしてきたもの、つくってきたものが人生なんだよ。


というのが答え…かな。意味不明?あは。そんな方は「人間の絆」を読んだらわかります(ネタバレじゃなかったのか)
つまりは逆転の発想なんですね。私たちは自分たちの未来を思い描いてときどきいつの間にか
こうあるべきだ!
とか
こうでなきゃ自分の人生じゃない!
とかその描く「夢」に押しつぶされそうになるけど、それは人生じゃない。自分が通ってきた道。自分がつくってきたもの。それが人生なんだよ。
と、サマセット・モームは言ってます。なんだか楽になれる人生論じゃありません?たとえ出来上がった「人生」がちょっと理想と違っててもいいじゃない。それはちゃんと君の「人生」なんだよ。と、肯定されているような気がします。
サマセット・モームはもっと素敵な言葉でそう教えてくれてるんですけど、高柴のフィルターで濾されてこんなスッカスカの言葉になってしまって申し訳ないです。

あんまり関係なくて、ただの私の連想かもしれませんけどこれって名付けに似ているような気がします。
今、変わった名前が多いじゃないですか。読めなかったりもはや日本人じゃなかったり…。きっと親はかわいい子に、幸せな子に、愛される子になってほしいと願いを込めて名前をつけているのでしょうが、逆だと思うんですよねぇ。
親が名前に願いを込めるのは素敵なことですし、みなさんそうなさっているでしょう。
でも、名前がかわいいから可愛い子になるわけではなく、名前が優しいから思いやりに満ちた子になるわけじゃない。その子が可愛いからその名前もかわいくなり、思いやりに満ちているから名前の響きが優しく感じる。そういう経験ってありませんか?クラスにいませんでしたか?ものっすごい古風な名前とかいかつい名前なのに本人はすっごく可愛くてニコニコしていて名前に何のコンプレックスも感じてなんかいなくて。自然とその名前がなんだか可愛いものに感じられてきてみんなから○○ちゃん!と名前で呼ばれて愛されている子。逆に名前はとっても可愛いのに本人の根性めちゃくちゃ悪くてその名前に「性格悪そう…」というイメージを生み出している子。

名前ってそんなに大層なもんじゃないと思うんです。名前にはその子を作り上げていく力なんてなくて、その子が自分の名前のイメージを作り上げていくのだと。
変わった名前を否定したいわけではありません。実際、日本人離れした名前の同級生がいましたけど、本人の顔も雰囲気も性格も日本人離れしていてよくこんなぴったりな名前つけたなぁと感心しました。しかしあまりに願いとか思いを込めすぎて
・・・とんち?
みたいな漢字を使ってみたり、真顔で呼べないような名前をつけている人をみると
・・・ハハ
ってなるなぁ。と、年賀状とかをみてそう思います。年賀状に毎年振り仮名がいる名前って・・・どうなんだろう。
ま、呼びやすく読みやすい名前が一番良いですね♪




高柴